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2012年4月 7日 (土)

つげ義春は漫画で文学を描いたんだなあと(「やもり」)

つげ義春を読んだことない人向け。

こんな漫画があったのか・・・という第一印象。

漫画っていう表現形式は、分かりやすいコンテンツの入れ物になることが多くて、無意識のうちに漫画が表現しうる範囲に対して、固定観念をもっていたみたい。

ここ笑うとこですよ、ここ泣くとこですよ、ここ驚くとこですよ、みたいな分かりやすさ。誰でも楽しめますよ、迷子になりませんよ的な。

でも、つげ義春の漫画は必ずしもそんな構造になっていない。

「大場電気鍍金工業所」「少年」「海へ」「やもり」あたりの作品は、自身の子供の頃の体験を元にしながらも、もちろんフィクション要素も含んでいる。

これって、いわゆる私小説ってやつに近いですよね。

起承転結が明確でなかったり、オチらしきものがなかったり。ハッピーエンドでも、アンハッピーエンドでもなく。

例えば「やもり」だと、主人公の少年は義父に虐待を受けていて、その夜は家に入れてもらえない。ふと、うちの子にならないか、みたいなことを言っていた好夫婦の家に足が向くんだけど、玄関灯にはりついているやもりを見て、走って逃げていく。

そこで終わり。

「やもり」(つげ義春全集)
「やもり」の最後の場面(つげ義春全集 (7)より)

この、読者を戸惑わせる感じ。

こう解釈してほしい、みたいなのをはっきり表現すれば、読者は安心して読めるんだろうけど、そうはしない。

でも、その宙ぶらりんな感じが楽しかったり。人が楽しんでいるところと、自分が楽しんでいるところが全然違ったり。「やもりは○○の暗示だ」みたいな解釈を加えたみたところで、結構とんちんかんだったり。そして、そんなところが、かえって楽しかったり。

あなたが本当に楽しめる漫画は、ワンピースじゃないのかも・・・なんてね。

つげ義春全集 (7)
つげ義春全集 (7)

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コメント

日の戯れの最後もそんな感じに近い気がします

コメントありがとうございます。

つげ義春の作品は、「つげ義春全集」を一通り図書館で借りて読みました。なので、「日の戯れ」も読みました。

のはずなのですが、記憶が・・・

なので、読み直そうと思ったところ、川崎市立図書館の蔵書から全集の4,5,6巻がなくなっていたんですよ(「日の戯れ」は6巻【「ねじ式」「夜が掴む」】に所収)。紛失したのか、破損したのか。

古い本だから補充されるかどうかが心配。買おうかなあ。

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