小僧寿しの由来は志賀直哉の『小僧の神様』・・・なのか?
2週間前くらいに出たWIRED(ワイアード)VOL.43を読んでましたところ、「文学から読み解くテクノロジー」という川田十夢氏の連載の中で、ある芸人とウーバーイーツと小僧寿しのゴタゴタに触れていまして、それはさておき、ここで、この小僧寿しの名前の由来が志賀直哉の小僧の神様であることを知りました。
同社が小僧寿しの由来としたのは、志賀直哉の『小僧の神様』である。ここに登場する丁稚奉公する少年のように、謙虚で驕ることのない気持ちでお客様と接してゆきたいという思いが、創業当時は込められていた。
なるほど、「小僧」と「寿司」の組合せといえば「小僧の神様」だ。なぜ今まで気づかなかったのだろう。
で、裏をとるべく、小僧寿しのサイトを見てみると、書かれていました。
我々の社名の由来は、小説家「志賀直哉」が1919年に発表された短編小説『小僧の神様』から。
『小僧の神様』に登場する秤(はかり)屋の小僧、仙吉が、高価なお寿司を食べたくても食べられない人のため、寿司屋になろうという気持ちを抱きます。(後略)
・・・ん? 小僧の神様ってそんな話だったっけ?
寿司を食べたいと思ったり、通りすがりの議員に奢ってもらったり、いろいろ不思議だから神様じゃなかろうかと思ったり、そんなことはあったけど、「寿司屋になろうという気持ちを抱」くなんて場面あったっけ?
というのが気になったので、私が買った当時(昭和末期)は260円だった文庫本を、書庫から引っ張り出してきました。ちなみに、私はカラーボックスのことを書庫と呼んでいます。
寿司に関連して仙吉の心情が描写されている箇所を抜粋。
【一節】
・・・
(番頭たちが鮨屋の話をしているのを聞いて)
仙吉は早く自分も番頭になって、そんな通らしい口をききながら、勝手にそういう家の暖簾をくぐる身分になりたいものだと思った。
・・・
仙吉は「いろいろそういう名代の店があるものだな」と思って聴いていた。そして、「しかし旨いというと全体どういう具合に旨いものだろう」そう思いながら、口の中に溜って来る唾を、音のしないように用心しいしい飲み込んだ。
【二節】
・・・
外濠の電車を鍛冶橋で降りると、彼は故と鮨屋の前を通って行った。彼は鮨屋の暖簾を見ながら、その暖簾を勢いよく分けて入って行く番頭たちの様子を想った。その時彼はかなり腹がへっていた。脂で黄がかった鮪の鮨が想像の眼に映ると、彼は「一つでもいいから食いたいものだ」と考えた。
・・・
【八節】
・・・
(秤屋の客の議員に食べさせてもらったあとで)
これまでも腹一杯に食ったことはよくある。しかし、こんな旨いもので一杯にしたことは憶い出せなかった
・・・
(タイトルの「神様」のくだり)
自分が屋台鮨屋で恥をかいたことも、番頭たちがあの鮨屋の噂をしていたことも、その上第一自分の心の中まで見透して、あんなに充分、御馳走をしてくれた。到底それは人間業ではないと考えた。神様かも知れない。
・・・
【十節】
・・・
彼は悲しい時、苦しい時に必ず「あの客」を想った。それは想うだけで或る慰めになった。彼はいつかはまた「あの客」が思わぬ恵みを持って自分の前に現れて来ることを信じていた。
・・・
んー。「寿司屋になろう」とか、やっぱないじゃん。
というわけで、広報担当のかたなのか、ブランディング担当の方なのか分かりませんが、短い小説ですので元ネタをちゃんと確認してから、社名の由来のページを修正したほうが、ええんちゃうのん?
千原せいじ より(うそ)
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